「なぜ人を殺してはいけないのか。」
ということが疑問でした。
「なぜ人を殺してはいけないのか。」という質問に対し、
多くの大人は「そんなの当たり前だ」と即答しました。
子供の頃の私は戸惑い、
そして、一体なにが「当たり前」なのだろう、と悩みました。
それから何年も経ち、
大人になった私が知った「人を殺してはいけない理由」とは
次のようなものです。
1. 殺人防止のための「外からの強制力」- 法と国家
現代社会において、「人を殺してはいけない」理由は何でしょうか。
まずは、外からの強制力を考えてみましょう。
まずは国家権力である法律について。
厳密に言えば、
法律は「人を殺してはいけない」とは言っていません。
・ 刑法は、
「人を殺したら『…という罰』を与えますよ。」という法律であって、
「人を殺してはいけません。」という法律ではありません。
「人を殺してはいけない」と、国民の自由意志に直接強制しない代わりに、
刑罰を科すことで抑止力を期待しているわけです。
(刑罰には他にも、
社会復帰への再教育、罪に対する償い、等の役割があります。)
・ 次に憲法です。
憲法には「基本的人権の尊重」が書かれていますが、
憲法は公法であり、国家と国民との関係を規定している法律です。
私人間の関係である殺人には、憲法は直接的には関与しません。
憲法の「基本的人権の尊重」に基づいて、
私人間の関係に直接影響を与える民法や刑法が存在しますが、
これらはやはり、
「…という行為を犯したら、
…という結果になります (罰を与えます)。」
という内容であり、
「…という行為をしてはいけません」
という内容ではありません。
つまり、法律は直接的には
「人を殺してはいけません。」と言っていないと考えられます。
・ でも、普通の人間なら、
「人を殺したら、死刑になりますよ」と言われれば、
「人を殺してはいけません。」と言われなくても、
人を殺そうと思わなくなります。
ですから、普通の人間に対しては、法律は十分に、
「人を殺してはならない」抑止力になっています。
でも、世の中には、
「俺は別に死刑になってもいいから、人を殺したい」
というタイプの人間も存在します。
このような種類の人間には、
法律は「人を殺してはならない」理由にはなっていません。
2. 「外からの強制力」の昔と今 - 絶対的権力と社会契約
昔は、
死刑を恐れないの人たちも受け入れざるを得ない、
絶対的な「人を殺してはいけない理由」が存在しました。
ある文化圏では、宗教があって、神がいて、
神が「人を殺してはいけない」と規定していました。
ある文化圏では、絶対的な権力を持った王が、
「人を殺してはいけない。」と規定していました。
ある文化圏では、
「人を殺してはいけない。」というのは、
倫理 (生得的な、天から与えられた人の道) であると考えられ、
それを犯す事は許されませんでした。
このように「絶対的な存在」が、
「人を殺してはならない」と規定すれば、
誰一人そこから逃れることはできません。
・ 昔はそれで良かったのですが、
現代はそういう訳にはいきません。
絶対的な力を持つ、「神」も「王」も「倫理」も存在しません。
それらの代わりとなる「国家・政府」は、
個人の内面(心・思想)に対して直接的に干渉・強制できるだけの、
リヴァイアサンのような絶対的な力を持っていません。
(人類は歴史の教訓から、
国家が絶対的な権力を持つのは危険だと学び、
国家から絶対的権力を奪いました。)
・ 昔の社会は絶対的な上下関係・権力関係に基づいていましたが、
近代社会は社会契約論に基づいて成り立っています。
我々は、個人個人がお互いに、
次のような相互契約をすることで社会が成立しています。
殺人に関して言えば、
「私達は (自然状態においては)、人を殺すことは自由なんだけど、
その自由をお互い放棄しよう。
(でも、思想・心の自由までは放棄しないよ。)
私があなたを殺さない代わり、あなたも私を殺さないでくれ。
そうしないと、お互いに安心して社会生活を維持できないから。」
と相互契約していると仮定されます。
そして、
この相互契約の遂行を手助け(監視・管理)するシステムとして、
国家 (法律、警察、刑罰など) が存在しています。
・ もし、この相互契約が破綻すると、
私達は安全な社会生活を維持できなくなります。
ということは、裏返せば、
もし私達が安全な社会生活を維持したいと思うなら、
相互契約を破綻させないために、人殺しをするわけにはいかない。
だから、人殺しをしてはいけない。
となります。
簡単に言えば、
「自分が殺されたくないから、あなたを殺さない」
ということです。
これが現代における (理屈の上での)、
人殺しをしてはいけない理由になります。
3. 「内からの強制力」 - 同情
次は、内側 (心) から、
人を殺してはいけない理由を考えてみましょう。
よく、次のような意見を耳にします。
「人を殺したら、その人が苦しむ。
つらい。かわいそう。だから殺してはいけない。」
「人を殺したら、殺した相手の身内が悲しむ。
だから殺してはいけない。」
「あなただって、殺されたくないでしょう。
だから殺してはいけない。」
まっとうな意見だと思います。
でも、これらの意見は、
「全ての『人間』は、『私』と同じ『感情を持った人間』である。」
という前提があって、初めて成り立つ意見です。
・ 「私」と「あなた」は同じ「感情を持った人間」でしょうか。
頭が痛くなりそうな哲学のお話です。
「私」の外見と、「あなた」の外見は確かに似ています。
解剖してみればきっと、
「私」と「あなた」は同じ構造をしているでしょうし、
CT画像をとってみれば、
「私」と「あなた」はたぶん同じような脳の形をしています。
でも、だからといって、
「あなた」が「私」と同じような感情を持っているかは、
分かりません。
あなたが、私と同じように、
痛みを感じたり、苦しんだり、悲しんだり、つらかったり、
するかは、分かりません。
・ 確かに、
「あなた」を殴れば、「あなた」は、
「痛そうな表情 (私が痛いときにするのと同じような表情)」をするし、
「あなた」に罵詈雑言を浴びせれば、「あなた」は、
「怒ったような素振り (私が怒ったときと同じような行動)」をします。
「あなた」の身内が死ねば、「あなた」は、
「涙を流す (私が悲しいときに出すものと同じものを出す)」。
・ でも、
「痛そうな表情」、「怒ったような素振り」、「涙を流す」といった
外見的現象が起きているからといって、
あなたが本当に、私と同じように、
「痛い」のか、「怒っている」のか、「悲しい」のか、といった、
「あなた」の内面を確認することはできません。
(できるのは、推察だけです。)
・ 「私」が「私」でいる限り、
「私」の主観は「私」の中にあるわけで、
「私」の主観が「あなた」の主観の中に入れない限り、
「あなた」の主観は「私」にとって、完全なブラックボックスなわけです。
(哲学的な、ややっこしい問題です。)
・ それでも普通の人なら、無意識のうちに次のように考えます。
「あなた(の主観)」というブラックボックスに対し、
誉めたり、罵詈雑言を浴びせたりした。(「入力」を与えた)
↓
あなたは、喜んだ(ような)表情をしたり、
怒った(ような)表情をしたりした。(「出力」があった。)
↓
その反応は、普段の私の反応と、良く似ている。
(入力/出力の関係が、自分と似ている。)
↓
だからきっと、
あなたは、私と同じ「感情を持った人間」なんだろう。
↓
私と同じならば、私の嫌なことは、あなたも嫌なはずだ。
↓
私の嫌なことを、あなたにしないようにしよう。(同情)
↓
私は殺されるのは嫌だ。
それと同じように、あなたも殺されるのは、きっと嫌だろう。
↓
私は、あなたを殺さない。
・ つまり、
私とあなたが、同じ「感情を持った人間」だと類推し、
自分の嫌な事は、相手も嫌だろう、と判断した結果 (同情)、
「人を殺してはいけない」と結論づけます。
普通の人間の場合、
「同情」が、人を殺してはいけない理由となっています。
4. 人殺しが可能になる思考パターン
でも、次のような考え方をする人がいたらどうでしょう。
俺は「俺」が殺されるのは嫌だ。
それと同じように「あんた」も殺されるのは、きっと嫌だろう。
↓
でも、それがなんだっていうんだ。
↓
(俺はあんたのことが嫌いで、恨みがある。)
別にあんたがどう感じようと、俺の知ったこっちゃないね。
↓
だから俺は、あんたを殺す。
普通の殺人における思考パターンはこんな感じだと思います。
「あんた」が「俺」と同じ「感情を持った人間」であることは認めているけど、
相手の感情を無視してしまうわけです。
・ 他にも、次のような考え方があります。
確かに「あなた」は「私」と同じような外見をしてるし、
私と同じように、泣いたり笑ったり、といった反応を示す。
↓
一見、私と同じように「主観(感情)」があるように思える。
↓
でも、そう「思える」だけなんじゃないのか?
あなたは、私と同じような反応を示すけれど、
実は良くできた「模造品(ロボットとか)」なんじゃないのか?
↓
あなたは「感情」なんて、持っていないんじゃないのか?
「痛い」ふりや、「悲しい」ふりをしているけど、
本当は「何にも感じてない」んじゃないのか?
↓
だいたい、「私」が「私」でいる限り、
「あなた」に主観があるかなんて、私には絶対分からないんだ。
↓
だったら、壊したっていいじゃないか。
要するに、
「あなた」が「主観(感情)を持った人間」である、
というのを認めない思考パターンです。
・後者のような思考をしてしまっている人にとって、
「同情」は、人を殺してはいけない理由にはなりません。
彼らは、「同情」っていう感覚を失ってしまっています。
このような人たちに対しては、
「あなた」も「私」も同じ「感情を持った人間」である
という事を納得させる必要があります。
でも、それはとても難しい事です。
「あなた」も「私」も同じ「感情」を持っている証拠なんてありません。
皆、暗黙の内にそう仮定しているだけです。
普通の人間の思考のほうが、はるかに理にかなっていますが、
「同情」を失った人たちの主張も、完全にでたらめなわけではありません。
・ 結局、
そのような殺人者たちを理詰めで説得するためには、
現代の法律、哲学、科学の範囲内では困難だと思います。
「あなた」も「私」も同じ「感情」を持っている人間だ、
という暗黙の仮定を、
ひたすら教育 (洗脳) するしかないのかもしれません。
つきつめて言えば、
社会とは、コミュニケーションと教育により、
ほぼ同質の考えを持った人間によって作られた集団です。
社会を壊しうる異質な考えを持つ人間は、
教育するか、排除するかしなければならない、
というのが、現代社会で行われていることなのだと思います。
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>我々は、個人個人がお互いに、
>次のような相互契約をしてる
>私があなたを殺さない代わり、
>あなたも私を殺さないでくれ。
というふうにとらえると,自殺=悪という構図を説明するためにもうひとつ別個の説明概念が必要になってしまうかなと。
なかなかためになったと思います(^^)
そーですよね。なんで、自殺してはいけない(と言われている)のかは、なかなか難しい問題だと思います。確かに、自殺も他殺も「命を大切に」って言っちゃえば、それまでなんですけど。
・・・
まー、ここらへんは経験上、色々思うことがあるんで、心の調子が良くなったら書きたいと思いますっ。
> dddoさま
おー、こんな超長文&乱文を最後まで読んでいただけるとは、感謝感謝です。おーっ、なんと「なかなかためになった」とは。ありがとーございます。
社会通念上で考えると、私の少ない知恵と知識がへたるので、私なりに自分を納得させるには、一気に宇宙に巻き戻しています。
誤解を恐れずに歴史で言うと、人類は、より好戦的で戦いのうまい民族の末裔なのかもしれないな、と思います。これも、そこから又思考することがあるのですが。
方法論が違ってすみません。
かざふみさんの記事は、わかりやすく面白く読みました。
調子が悪いときは、ぐーっと内側にこもってしまうので、逆にダラダラと長文を書いてしまうのですっ。
人類は好戦的か平和的か・・・やっぱり、好戦的っぽいですね。でもたまに、ホモサピエンスは本当は「平和を愛する」種属なのかもなぁ、と思うこともあります。